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2014年11月30日日曜日

「スピーチ」

ここのところ、いろいろなところで前に出て話す機会をいただいていました。
弁護士としてイベントでお話したり、プレゼンする機会はもちろん、友人の結婚式でスピーチをさせていただいたりもしました。
こういった機会を与えていただくごとに、各方面との仕事のつながりや、素晴らしい友人関係に感謝するものです。

さて、法廷でも、人の前に出て話す機会がたくさんあります。
特に、英語では「final speech」とも言われる最終弁論は、まさにスピーチです。
最終弁論は、弁護人の主張を裁判官や裁判員に伝える重要な機会です。
一人でも多くの裁判官や裁判員に主張に共感してもらえるよう、あの手この手を尽くします。
そのために必要な技術がたくさん提唱されています。

私は、法廷以外でのスピーチやプレゼンの場面でも、実はこの弁論技術を意識して応用します。
法廷とはスピーチの目的は違います。それは、取調べの可視化を理解してもらうことだったり、裁判員裁判に興味をもってもらうことだったり、新郎新婦を感動させることだったりします。
しかし、人に共感してもらうための興味の引き方、構成、話し方などは、目的は違っても同じところも多いはずです。
そのテーマで一番相手の共感を得ることができるのはどういうスピーチか、自由な発想で考え、実践するのです。

そして、このような実践は、逆に、法廷技術の向上にも非常に役に立ちます。
裁判での弁論というのは、普段から私たち弁護士がなじみのある分野ですから、法律家として考えが凝り固まってしまいがちです。
しかし、法律という枠を外れて自由に構成を考える機会を持つことで、本来あるべき自由な発想に立ち返ることができます。
結果、裁判での弁論でも、斬新な発想や意外な視点を提供することができたりするのです。

ですから、今後も、そのような機会をいただける限り、積極的に手をあげたいと思っています。

2014年11月19日水曜日

「身体拘束」

逮捕や、勾留は、人の身体の自由を制圧する行為です。人の身体を拘束する行為です。
逮捕は犯罪です。ただし、警察官などが容疑者を捕まえるときには、特別に許されています。

一般には、悪いことをしたんだから、逮捕されて当然だと思われています。
しかし、それは違います。
証拠によって犯罪が証明され、裁判で有罪判決を受けるまでは、人は「無罪の推定」を受けます。
現実に、逮捕・勾留された人も、多くの人が不起訴(裁判を受けない)処分となっています。
逮捕された時には派手に報道される事件も、不起訴となっている事件は少なくありません。
逮捕・勾留される人が悪い人であるとは限らないのです。

では、なぜ逮捕・勾留が正当化されるんでしょうか。

逮捕・勾留は、一般的に犯罪の嫌疑があり、「罪証隠滅」や「逃亡」をする相当な疑いがあるときになされることになっています。わかりやすくいいかえると
 「今は疑わしいだけで有罪とは限らないけども、釈放しておくと証拠を隠されたり逃げたりする可能性が高いから、拘束しておく」
ということです。
逆にいえば、そういう可能性が低ければ、家から取調べに通い、家から裁判に通うということで全く問題はありません。裁判で有罪とされれば、刑務所へ行って罪をつぐなえばいいわけです。
裁判で有罪判決を受けるまでは無罪の推定を受ける市民を拘束するのですから、拘束の条件は厳格でなければならないはずです。証拠隠滅や逃亡のおそれは、具体的なものでなければならないはずです。

しかし、現実はそうなっていません。
極めて抽象的な証拠隠滅のおそれや逃亡のおそれがあると認定されて、逮捕・勾留されています。そして、ずっと拘束されたまま裁判を受けるケースも多くあります。
「罪証隠滅や逃亡のおそれは読めない。けれども、一度されてしまったら取り返しがつかないので拘束するのだ」と、ある検察官(裁判官だったかもしれません)は言っていました。

私は、2年前、日弁連に派遣されたチームの一人として、イギリスの刑事事件の現状視察に行きました。イギリスでは、取調べを受ける前に弁護人の援助を受ける権利が保障されています。それを学びに行くことが目的でした。
もちろんその点は勉強になったのですが、私がほかに大きな衝撃を受けたのは、身体拘束の在り方でした。どんどん逮捕された容疑者が釈放されていくのです。逮捕された容疑者のうち、拘束されたまま裁判を受けることになるのは、10パーセント程度だということでした。
そして、ある裁判官はこう言っていました。
「罪証隠滅や逃亡のおそれは読めない。将来のことだからね。わからないからこそ、釈放するのが原則なんだ。もし何かあったら、その時にペナルティを課せばいい」
実際に罪証隠滅や逃亡といった事態が起こるのは、多くはないそうです。

どちらが、「無罪の推定」にそぐう考え方でしょうか。
私は弁護人としてたくさんの事件にかかわりました。本当に、不必要な拘束をされているという事件を多く経験しました。そして、そのことを全く理解していない、検察官や裁判官の対応を目にしました。
身体拘束の現状は変わらなければなりません。
個人的には、数ある刑事司法の問題点の中で、この問題が最も大きな課題ではないかと思っています。無用な逮捕、勾留がなくなるだけで、冤罪は減ると思います。無駄な身体拘束がなくなって初めて、市民一人一人が、公平な裁判を受ける権利を享受できると思います。
 

2014年11月10日月曜日

「ルール その2」

世の中にはたくさんのルールがあります。
時に、ルールは、「~してよい」という形をとることもあります。
先日は、「~してはいけない」ルールについてお話ししましたが、逆のルールについて思うところをお話ししたいと思います。

本来的に、人は自由です。
近代国家において、人は、自由な個人であることが想定されています。
国家によって生かされているわけではありません。
ルールによって生かされているわけでもありません。
ですから、いちいち「~してよい」なんて言われなくても、そんなおせっかいをいわれなくても、人は基本的に自由なのです。
(ルールが世界を作っているスポーツやゲームは違いますが)

では、そういう世界の中で「~してよい」というルールの存在意義は何なのか。
私は、そのようなルールが意味を持つためには、「~してもとやかく言われない」「~しても不利益を受けない」という意味を持たなければならないと思っています。

刑事事件のルールを定めた刑事訴訟法には、「黙秘権」という権利が定められています。
黙秘権の意義や正当性、重要性についてここで述べることはしません。
この権利は、簡単にいえば、「取調べや、裁判で、黙っていてよい」というルールです。
しかし、これを文字通りに考えれば、これはあまりにも当然です。人の口に手を突っ込んでも言葉は出てきませんから、黙りたかったら、本人が黙ればいいのです。「黙っていてよい」などと言われなくても、黙ることは少なくとも物理的には可能です。

ですから、「黙っていてよい」というルールは、「黙っていてもとやかくいわれない」「黙っていることによって不利益を受けない」という意味を持たなければなりません。

しかし、現実の事件では、それとは異なった扱いを受けることがあります。
捜査機関は、取調べのはじめに「取り調べでは、黙っていてもいい」と告知しなければならないと決められています。実際、告知は行われます。しかし、多くの捜査官は、そう言った舌の根も乾かぬうちに、「黙秘していると不利になるぞ」「黙っていると反省が見えないから重い刑になる」などとまくし立てます。黙っていることに、とやかく言い続けます。不利益になりかねないと示唆します。
私はしばしば黙秘権の行使を防御戦術として選択します。そのような場合、捜査機関が黙秘に対して上のような圧力をかけてこなかったことは、たったの一度もありません。

しかし、本当に黙秘権の行使が不利益を招いたと感じたことも、たったの一度もありません。
捜査機関の圧力は、けっきょく、多くの場合、脅しあるいは虚言です。
黙秘権を行使している被疑者を怒鳴りつけている間に、ほかの客観的な証拠を集めたり、証明の方法を考えることに時間を使ったほうがいいと思います。
そうしなければ、真犯人をどんどん逃がしてしまうかもしれない。
そうしなければ、本当は犯人でない被疑者が屈服し、冤罪が生まれてしまうかもしれない。

ルールですから、そのルールがあることによって不都合な当事者も、そのルールを尊重しなければならないはずです。
「~してよい」というルールが、「~してもとやかく言われない」「~しても不利益を受けない」という意味を持ち続けられるように、明日も接見に行きます。